2014年6月25日水曜日

”分かり合えやしないってことだけを分かり合う”のは、悲しいことなのか?

ここ最近つれづれなるままに考えているパートナーシップ考、
一度言葉にしないと先に進めない!と感じていて。って大げさか。

今、少しだけ時間があるので(次男が昼寝中―!)、まとまりないまま
言葉にしていこうと思います。

先日、マドレボニータのカップル講座に夫と参加し、
(人見知りの夫は、参加するのを相当嫌がっていましたが、
珍しくあきらめずに「一緒に行きたい!」と伝え続け、参加と相成りました)
シェアリングのプログラムがいかにタフであるかを実感しました。

「人生」「仕事」「パートナーシップ」をお題に、
”こうありたい”という希望を象徴する絵を描く。
話し手は、3分間、自分が選んだお題について取り留めなく話す。
3分間、相手の話に口をはさまずに聞き、メモをし、要約して相手に伝える。
お互い”聞き届けた”という証のメッセージとサインを書く。

何度も、何度もやったプログラムです。

でも、夫とやった時、
”お互いの話をこんなにじっと聞き届けるなんて、どれくらいぶりだろう”
と感じ、なんだか泣きそうになってしまった。

夫婦仲はいい方だと思うし、毎日(概ね)楽しく暮らしている。
でも、お互いどんな関係性でありたいのか、
そういう観点からは、あまり自分達の事を考えてこなかったなー、という衝撃がありました。

それは、「好き」から始まった関係だからなのかなー、と思ったり。
恋愛中って、(特に私は少女漫画から多大な影響を受けているので)
「好き」と言えば、それでなんでも済んでしまうようなところがありませんか?
お互いの共通点を確認していく、甘やかな時間。
お互いを知りたい、分かり合いたい、できれば嫌われたくない。

そんな恋愛中だった頃、
フリッパーズギターの「すべての言葉はさよなら」を、悲しい歌だなーと思っていました。
“カメラの中でほら
夢のような物語が始まる
分かり合えやしないってことだけを
分かり合うのさ”

でも、パートナーシップの構築は、
実はここから始まるんじゃないだろうか。
という事を、最近考えています。

“分かり合えやしないってことだけを
分かり合っている”って、
シニカルな響きがあるけど、
実はすごく力強い事なんじゃないだろうか。
分かり合う、という事を、
それほど求めているんだろうか?

それよりも、
分かり合えないことを前提に
分かち合う、
分かち合いたいとお互いに思える、
そっちの方がしっくり来るような気がする。
(って、今書いてみて初めてそんな言葉が出てきたけど!)

そんな気持ちで聴くと、なんだか希望に満ちた歌だとすら感じる。
そんな雨の日曜日です。

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